海洋資源化学研究室

私たちの目指すもの

マリンバイオと糖鎖・脂質生物学

~ポストゲノム研究の2つのフロンティア~

 生命は,37億年前に海で誕生したといわれています。それに比べると,陸上生物の歴史は,まだ数億年に過ぎません。海洋には,陸上には上がらなかった生物の子孫も残っていますし,海洋の特殊な環境下に適応してきた生物種も存在します。海は,未知の遺伝子資源の宝庫といえます。あるいは,古い歴史を持つ忘れられた貴重な遺伝子資源というべきかも知れません。人類が未来を豊かに生き抜いていくには,海洋の未知の遺伝子資源やそれらの産物を解析・利用し,人類の福祉と健康に役立てて行くことが必要だと私たちは考えています。

 海洋資源化学研究室は,海洋に存在する遺伝子と,その遺伝子を設計図として作られるタンパク質,糖鎖,脂質などの有用有機化合物の探索と高度利用を目指して研究を進めています。そのような研究をここでは“マリンバイオ”と呼ぶことにします。

 タンパク質は遺伝子の直接的な産物ですが,糖鎖や脂質は複数のタンパク質(酵素)が触媒する複雑な反応によって作られるので,遺伝子に直接支配されないと表現されます。長い間,糖質や脂質は生体のエネルギー成分あるいは生体膜の構造を維持する物質として研究されてきました。しかし,近年,特定の糖鎖(糖質ではなくここでは糖の鎖,糖鎖と呼びます)や脂質は,細胞同士の認識,細胞内外の情報伝達等に重要な役割を果たす機能性分子としてクローズアップされてきました。例えば,リンパ球が炎症部位に集合する現象,受精における生物種間のバリアー,細胞接着,神経細胞のシナプス形成等には特定の糖鎖とそれを認識する蛋白質(あるいは糖鎖)の特異的な認識機構が重要であることが明らかにされています。また,インフルエンザウイルス,病原性大腸菌O157,コレラ菌がヒトに感染する時には細胞表面の特定の糖鎖をレセプターとして利用していることも示されています。この特異的な接着を防ぐことで感染を防御する新しいコンセプトに基づいたインフルエンザ予防薬がすでに医薬品として使われ始めました。一方,細胞外からの刺激(紫外線,X線,様々なサイトカインや成長因子等)に応答して形質膜の特定の脂質が内在性の酵素によって分解を受け,その代謝産物が細胞内の様々な情報伝達系を調節することで細胞の生死,増殖,分化を制御している例も次々に明らかにされています。

 21世紀初頭にはヒトを含む有用生物のゲノム解析がほぼ全て終了するでしょう。遺伝子の直接的な支配を受けない糖鎖及び脂質の研究は,複雑系としての生物機能を理解する切り札の1つとなる可能性を秘めていて,ポストゲノムの研究対象としても注目されています。しかし,研究方法の制約もあり,糖鎖あるいは脂質の生物機能は依然として不明なものが多く,その解明はまさしくこれからの研究分野と言えます。 私たちの研究室は,マリンバイオの研究を推進すると共に,糖鎖と脂質の機能を分子・細胞生物学的手法で解明することを目指しています。現在,私たちが特に興味を持って研究しているのはスフィンゴ(糖)脂質という細胞情報分子です。スフィンゴ(糖)脂質は,ギリシャ神話に出てくる謎かけの怪獣スフィンクスにその名前が由来する生理活性(糖)脂質で,細胞の増殖,分化,アポトーシス,細胞運動,形態変化等に重要な働きをしていると考えられています。最近の研究によると,スフィンゴ(糖)脂質は生体膜上でコレステロールや様々な情報伝達に関わるキナーゼ(蛋白質のリン酸化酵素)とともにラフト(イカダの意味,生体膜を海に見立てるとスフィンゴ脂質を含むドメインはイカダのように見えることから命名された)と呼ばれるマイクロドメインを形成し,細胞内外の情報伝達を制御していることが明らかになりつつあります。また,スフィンゴ脂質の代謝やシグナル伝達系の異常は,癌,自己免疫疾患を始めとする様々な疾患に深く関係していることが示唆され,各方面から強い関心が寄せられています。

 最近、私達は海洋性真核単細胞生物のラビリンチュラ類を重点的な研究対象の1つにしています(ラビリンチュラ類の詳細は本HP「現在の研究テーマ」コラム欄を参照して下さい)。ラビリンチュラ類は、ドコサヘキサエン酸(DHA)等の高度不飽和脂肪酸、パルミチン酸等の飽和脂肪酸、スクアレン等の炭化水素の生産力に優れ、それらを細胞内の油球(油滴)に大量に蓄積することが出来ます。そのため、医薬品、機能性食品、バイオエネルギーの生産源として産業的にも深い関心が寄せられている微生物です。私達の研究の目標の1つは、ラビリンチュラ類の脂質代謝系を統合的に理解し、様々な脂質代謝改変株を作製することでラビリンチュラ類を医薬品、機能性食品、バイオエネルギー源として人類の福祉に貢献する海洋微生物に育て上げることです。

 具体的な私たちの研究に関しては,「現在の研究テーマ」をご覧ください。私達は、ラビリンチュラ類をはじめとする海洋資源を活用し、糖鎖や脂質が織り成す生命科学の新しいフロンティアを切り開きたいと考えています。また,これらの研究を通して、今世紀の人類が直面する健康とエネルギーに関する課題の解決に取り組みたいと考えています。

 このように,私たちはマリンバイオと糖鎖・脂質生物学というポストゲノムの2つのフロンティアで研究を続けています。

 私達の研究室で学ぶ大学院生は,生化学,分子生物学,微生物学の手法や考え方を身につけ,学際的な研究分野に対応出来る視野の広いバランスの取れた研究者に成長することが望まれます。